夢窓礎石と後水尾上皇

「そうだー京都行こう。」と、いうようなのりで
京都に行くことにきめました。
といっても、昨夏から、コッツウォールズ、ドイツミュンヘン、北海道富良野
あちらこちらに「行くー」といっては実現せず(ウソツキカモメになっていましたー)
やっとこのたびの旅たちですー。

もち、「日本庭園研修」の旅。その前に・・・
造園の歴史をひもとくうち、断然かがやいていたのが
夢窓国師でありました。
若くして才能に恵まれ悟りを開いたそのことは、今ひとつ遠い遠い世界のことではありましたが
彼の造園への思いにはいたくひかれました。
都をともかく離れ、清明な自然の中で悟りの暮らしに入りたいと
心からのあつい願いがあったにも関わらず
彼は時の最高権力者に請われ請われて、地方から次々と呼び立てられれました。
北条高時の母覚海夫人にいたっては、国師をつれかえらなかったら使者には「死ー」とまで。
そして戦乱ののちには敵方の後醍醐天皇
さらにまたその敵の足利氏にと、思いとうらはらに都から離れることはできなかったのです。
偉大な人格と禅の悟りをもちながら、権力欲の全くなかったひとであればこその待遇でした。
しかし満たされぬ思い、理想とする清澄な自然のただなかに身をおきたいー
その思いが、自然を象徴的に表現するという造園へとかりたてていったようです。
そうでなければ万を超す弟子を抱える超多忙な暮らしのなか
体力も気力もいる造園の仕事などかないません。
なおかつ六十を十分にすぎてみずから竹を植えかえでを植えてと全身全霊をあげた仕事でした。
さりとて職業としての「石立僧」とは違っていたはず。

芸術にはハングリーが必要。これは求めて得られるものでなく
芸術家としてえらばれたものの必然であり宿命。
あくなき人生への飢えが芸術のエネルギーです。

かれが禅の最高位に安穏としていたら西芳寺の造営も天竜寺の造営も
なかったはずです。求めるものの崇高さにしみじみ惹かれました。
これほどの造園家は今後もまずでないことと思われます。
私的に歴史上の造園三傑の一位に押すことにしました。
         (ちなみに二位には後水尾上皇、三位には小堀遠州。彼らもまたすごい方々です。)

このたびの旅には必ずおとずれます。天竜寺、そして修学院離宮桂離宮もまた。
造園の志の高潔さが後世の今も息づく庭として。
西芳寺は何かと敷居を高くしてガードされておりますが
とりあへず申し込み往復はがきは書きましたー
  (続く二傑については後編で)